スクールアイドル研究所

ラブライブシリーズのアニメ考察がメインです。考察という名の妄想ですが……

~5thに向けて~ これだけで解る!アニガサキ1期と2期で描かれたこと

どうも、わたしです。

お久しぶりでございます。

 

 

さて、虹ヶ咲の5thライブを目前に控えて、改めてラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会(以下アニガサキ)を振り返っていきたいと思います。

というのも、5thは2期アニメの内容にある程度沿ったライブになるかと思うからです。なので、私的にもアニガサキがどういった作品だったのかを振り返るのは結構重要だったりします。

 

このブログでも散々「アニガサキはこういう作品です!」みたいな記事は出しましたが、1期と2期全体でまとめた記事はありませんでした。

 

というわけで、今回は私というおっさんの妄想を出来るだけ拡げて、アニガサキというアニメ作品で描きたかったことを、この記事だけを読めばある程度わかるように纏めていきたいと思います。

 

※ここから先はアニメ、ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会ネタバレを含みます。まだ本編を視聴していない、またはネタバレが嫌だという人は決して見てはいけません。マジで責任は取りませんので、悪しからず。

※基本的にこの考察はただのおっさんの妄想です。ひとりのラブライバーの解釈であり、これが「正解」であるなどと言うつもりは全くございません。あくまで、妄想・ジョークの類として受け取って頂ければ幸いです。

⊡ 1期で始まる日常の変化

 

まず、もうこのブログでは何回も主張してる事ではありますが、私が思う1期で制作者が描きたかったことは「日常が変わる瞬間」です。これは、2期を見た後でも変わりません。

 

jmusublog.hatenablog.com

 

それが描きたい事なんだと言えるシーンは、上記の記事でも結構出してます。特にカット割りやセリフ、物語全体の構成なんかを見てもその結論まで導いてくれるものが結構あると思っています。

「詳しくは上の記事を読んでください」だけではさすがに不親切なので、私が決定的だと思ったシーンをひとつご紹介します。

 

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しずく「明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生来ないのだ! けれども……」

 

1話考察記事でも紹介しましたが、このセリフは太宰治の短編小説「女生徒」から引用されたセリフとなっています。

 

太宰治の「女生徒」は日常ばかりが続く女子高生の恐怖を描いた短編小説となっています。

同好会メンバーがせつ菜によって変えられた日常が、元の日常に戻ってしまうことが怖いというわけですね。

 

このシーンを挿入した意図は3つあると考えられます。

ひとつは、「桜坂しずくは演劇部員である」というのをこの1シーンだけで視聴者に理解させるためです。

二つ目は、「桜坂しずくもまた、旧同好会メンバーと同じく、スクールアイドルを始める前の日常生活に戻ってしまっている」ことを表現するためです。

そして三つ目はセリフに現れている通り、「桜坂しずくは日常生活に戻ってしまうのが怖い」ということを暗示させるためです。

 

ひとつ目の意図、「桜坂しずくは演劇部員」ということを視聴者に解らせるためだけなのであれば、ここのセリフは例えば誰もが知っている「おおロミオ!あなたはどうしてロミオなの!?」など、シェイクスピアから引用すればいいわけです。

しかし、そんな選択肢などいくつもある中で、敢えて演劇作品として認知されていないハズの「女生徒」のセリフから引用したのは、上記に挙げた2つ目と3つ目の意図を強調するためです。

敢えて言いますが、ここでは1つ目の意図である演劇部員は今更描く必要はないのです。何故なら、熱心なラブライバーであるなら「桜坂しずくが演劇部員である」ことなど周知の事実です。

であるならば、2つ目と3つ目の要素を強調し、「この作品は日常を描いた作品である」ことを強調した方がより新鮮なワケです。

 

以上の事からも、たった1話の1シーンだけで、アニガサキは「日常が変わる瞬間」がフォーカスになった作品だとわかります。

勿論、この他にも「日常が変わる瞬間」に該当するシーンはありますが、ひとつずつ挙げていくとキリがないので、各話の考察記事を参照してください。

 

⊡ 1期から2期で一貫して描かれたテーマ

 

そしてもうひとつ、1期を語る上で忘れてはならない事があります。

それは、「優木せつ菜が起こした影響が広がっていく」というテーマです。これは、私の独自の解釈が強いことはまず事前に言っておきましょう。

 

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まず1話は上記画像の3人から始まりました。今更この3人が誰なのかという解説は致しません。

大事なのは、優木せつ菜という一人のスクールアイドルが上原歩夢、高咲侑の2人の日常を変えてしまった」という事と、「その影響が果てしなく広がっていってしまった」という事です。

なんとこのテーマは1期だけでなく2期まで一貫して描かれました。

 

 

後述しますが、この2期の最後のシーンは上原歩夢が優木せつ菜(日常を変えるスクールアイドル)になった」ことで、ロンドンにいるこの2人の日常を変えてしまうという事だと解釈しています。もし続編や劇場版があるなら、それが詳細に描かれる事でしょう。

 

さて、少し脱線というか展開を先取りしてしまいますが、上記した通りアニガサキに於いてスクールアイドルの定義は「日常を変える人達」の事を言います。これが2期の最終話で歩夢がロンドンに行く事や、そして高咲侑がスクールアイドルだと言われた理由です。

この詳細を語るには2期の話をしなければいけませんね。

 

⊡ 2期で描かれたテーマとは

 

1期は「日常が変わる瞬間」を描いた作品だったのは前述した通りです。

それでは、2期では何が描かれたのかと言うと、「色(個性)が混ざり合う瞬間」です。

私がなんとなく最初にその事に想いを馳せたのは、2期のEDを見た時でした。

 

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2つの画像を見て欲しいのですが、まず1期ではそれぞれのメンバーがそれぞれのメンバーカラーの傘を持っている事で、各メンバーの「個性」が強調され、色が並んだ虹が最後に描かれていました。

ところが、2期のEDでメンバーが持っているのは「色が混ざり合った虹色の花」です。こういう場合にはメンバーカラーの花を持ちそうなものですが、虹色の花を持っているあたりに「色(個性)が混ざり合う話なのかな?」と私は気付きました。

 

私がアニガサキを絶賛している理由は、上記に書いた1期のテーマから逸脱することなく、新しいキャラクター(R3BIRTHの3人)を登場させ、ストーリーを展開させたことです。勿論、アニメ作品として不満が無いわけではありませんが、ここまで見事に纏めてくれるとはアニメが始まる前までは思ってもいませんでした。

 

まず、1期では優木せつ菜が歩夢や侑の日常を変えてしまった事で、波及的に人々の日常が変わってしまった(スクールアイドルになっていった)というのは前述しましたね。

1期の最終話でその波は「スクールアイドルフェスティバル」という大きなイベントの開催へと繋がりました。

 

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そしてその波は更に大きくなって海外まで届いてしまい、「鐘嵐珠」「ミア・テイラー」という2人のスクールアイドルを海外から呼び寄せてしまったというのが、2期の1話です。

 

どうでしょう?こうやって見ると、ちゃんと一貫した流れがあるのがわかるはずです。

 

⊡ 混ざり合う色たち

 

チラッと言いましたが、スクールアイドルは「日常を変える人たち」です。「スクールアイドル活動」そのものが「日常」となってしまった同好会の日常を、ランジュは変えてしまいます(なんかややこしいですね)。

 

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まず最初に起こった変化は、同好会の「ユニット活動」でした。

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QU4RTZからはじまり、同好会は次々とユニットを結成していきます。1期の時点では決して混ざり合わなかった色が、どんどんと混ざっていきます。

 

そしてなんとそれは、同好会だけに留まったことではありませんでした。

 

ランジュが出現したことで、同好会は「ファン」と「スクールアイドル」の関係性に悩んでしまいます。スクールアイドルとは?ファンとは? そんなことを突きつけられるのです。

 

色々と端折りますが、2期では更に大きな変化を作ってしまった人物がいます。

それが三船栞子です。

 

jmusublog.hatenablog.com

 

詳しくは例のごとく考察記事を読んで頂ければと思いますが、三船栞子が起こした変化は簡単に纏めてしまえばひとつになります。

それは、スクールアイドルとファンの境界線を無くしてしまった事です。

 

もう少し詳しく記述します。正確に言えば、三船栞子が行った事は「スクールアイドルフェスティバルと学園祭の合同開催」を決めた事です。勿論、栞子の意図はもっと運営上の別の所にありましたが、結果的にはこの決断がスクールアイドルとファンが一緒になってしまうきっかけになってしまいました。

 

その兆候として、まずこんなシーンがありました。

 

モブ「スクールアイドルを撮ってるんじゃないの?」

侑「そうだけど、みんな頑張ってるなあって」

 

セリフにもあるように、侑は当初SIFのPV用にスクールアイドルを撮影したはずですが、学園祭を手伝う非スクールアイドルの生徒達まで撮影しだしました。

このシーンが示唆するのは、侑の中でスクールアイドルと学生たちの境界が無くなっている事だと、筆者は考えます。

 

そして、もうひとつ重要な事が中川菜々と優木せつ菜の融合です。

 

正確に言えば、「優木せつ菜が正体をバラした」ということですが、そもそも何故優木せつ菜は「中川菜々」というアイデンティティを切り離していたのでしょうか?

2期6話のセリフだけで考えると、中川菜々の「生徒会長」と優木せつ菜の「スクールアイドル」が全く別なモノであり、どちらも自分にとって大好きなものだから分けている、という事になります。

しかし、それは三船栞子のSIFと学園祭の合同開催という一手によって崩れ始めます。

その象徴的なシーンのひとつが、「栞子に優木せつ菜の正体がバレる」というものでした。

 

 

上の画像は、優木せつ菜&中川菜々が、SIFと学園祭の活動を行き来した結果「融合してしまった」姿だと筆者は捉えています。

まさに、スクールアイドルと学生の境界線がなくなったことの象徴的なシーンだと考えています。

 

こうして、スクールアイドルと学生という色までもが、混ざり合ってしまいました。

 

⊡ 高咲侑(わたしたち)が何故スクールアイドルなのか

 

そして、物語の締めくくりとして混ざり合った色は、ファンです。

アニガサキにおいてのファンの代表的存在は、言うまでもなく高咲侑です。

これは今更いうことではないかもしれませんが、侑の名前はスクスタでいう「あなた(YOU)」から来ていますね。

 

 

2期の最終話で、侑は「スクールアイドル」として迎えられました。

なぜ侑がスクールアイドルと言えるのでしょうか?

侑はピアノ伴奏こそするものの、ステージで歌って踊るわけではありませんし、その役割は完全に裏方のそれです。

そんな彼女がスクールアイドルと言われる理由は、前半部分でもお伝えした通りアニガサキにおけるスクールアイドルの定義を考えればわかるはずです。

 

スクールアイドルは人の日常を変える力を持った人達のことを言います。

 

侑は作詞(たぶん)作曲担当という裏方にも関わらず、一定のファンが存在し、花束まで貰っています。多くの人間の人生や考え方と言った部分で、影響を及ぼしたのは、今までの同好会の物語を見れば明らかです。

 

結局1話の冒頭部分に戻ってくるのですが、高咲侑は1話で歩夢と侑の人生を変えてしまった優木せつ菜と同等の存在になってしまいました。

 

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それは、「トキメキを感じさせる人」という言い換えが、本作品では出来ると思います。

アニガサキに於いて「トキメキ」というのは非常に重要な単語なので、こちらについても少し触れておきたいと思います。

 

 

トキメキというあまりにも抽象的な単語に、侑は2期8話で悩みます。トキメキという単語が何回も出てくるのに、具体的にそれが一体どういう状態なのかを考えた人は意外といないのではないでしょうか。

 

jmusublog.hatenablog.com

詳しくは例によって上の記事を参照して頂ければと思いますが、こちらでも簡単に筆者の考えたトキメキについて記載したいと思います。

 

そもそも侑は優木せつ菜のパフォーマンスを見て「トキメいちゃった!」と言ってるわけですね。であれば、スクールアイドルのステージが一体何を表現しているのかを考えれば自ずと答えがわかるはずです。

 

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そのヒントとなるのは、8話で侑がランジュのステージを見た時に言った言葉にあると考えています。

 

「"私はこうなんだ"っていう想いが、歌や踊りから全部伝わってきた」

 

「私はこうなんだ」というのはつまり、「自分という人間性」であったり、「自分の人生」をステージで表現している、ということになります。

 

だからこそ侑は悩みます。「自分って何だろう?」「自分ってどういう存在なんだろう?」「ファンである自分って何?」

筆者の想像の域を出ませんが、そういった考えで悩んでいたのだと考えています。

 

 

「あなた達の人生(ステージ)に憧れた私」というのを、ひとつのアイデンティティ(トキメキ)として自分に定義づけたのが、2期8話だったと筆者は解釈しています。

 

「ファンである自分をめいっぱい伝えたい!」「私はあなたたちを応援している!」そんな想いから作曲されたのが、「TOKIMEKI Runners」でした。

 

 

多少話が前後しましたが、スクールアイドルだけでなく、それを支えるファン達までもが混ざり合った景色。これが、最終的に2期で描かれたものでした。

アニガサキの物語はステージにいる、あるいは画面に映っているキラキラしたスクールアイドル達だけの物語ではないんだよ。あなた達もアニガサキの物語のひとつなんだよ、というメッセージなのだと、筆者は解釈しています。

 

ファンにとって、これほど嬉しいメッセージがあるでしょうか?

まさにアニガサキはファンであるラブライバーたちをも巻き込んだ最高に素晴らしい虹色の景色だったと言えると思います。

 

そして最後に、このシーンについて

 

 

これはもう解ると思いますが、上原歩夢がスクールアイドル(人の日常を変える)存在として、ロンドンでまた新たな影響を起こすというシーンでもあります。

Twitterではこのイギリス人2人のキャラクターの髪色を反転させると、歩夢と侑と同じ髪色になることが話題となりました。

つまり、優木せつ菜が持っていた同じ役割を、歩夢はロンドンで発揮しているわけです。

 

最初に優木せつ菜のライブで起こった影響が、ついにはイギリスのロンドンにまで達してしまいました。1期の1話の流れに戻ってくるこの一貫した流れこそが、アニガサキの魅力の一つですね。

 

⊡ おわりに

 

アニガサキの前に「虹ヶ咲」のテーマには多様性があります。多様性を表す「虹」が名前に入っていたり、舞台がお台場(ダイバーシティ→Diver City →Diversity「多様性」)になっているのも、わかりやすいメッセージだと思います。

近年、多様性あるいは個性が尊重され、大事にされていることは言うまでもありません。その点に関して私も異議を唱えるつもりはありませんし、私も自分の個性を大事にして欲しいと世界に叫びたい人間の一人です。

しかし、多様性や個性といった言葉は捉え方次第では「区別」というネガティヴなモノへと変換されてしまいます。

「ひとりひとり違うからイイ」という捉え方が、事によっては「あの人は私と違うからキライ」というネガティヴな感情へと結びつくこともあります。難しいものです。

 

虹ヶ咲は1期で「個性」の大事さを描き、2期では「個性の違う人と関わり合う素晴らしさ」も描いたのかと思っています。

近年ラブライブはシリーズも多様化し、それぞれのタイトルにそれぞれのファンがいることもあれば、ラブライバー同士がそれぞれの好みの違いで不毛な争いをするという残念な結果になることも珍しくありません。

そういったタイトル別のファンとの違いを乗り越えて、「色が混ざり合う」ことで得られる素晴らしい景色を、我々ファンに見せてようとしているのではないかと私は感じました。

もうすぐ開催される5thが、そういったメッセージ性を含んだライブになるのかもしれません。アニガサキのストーリーが最終的に「ファンをも巻き込んだ色の融合」で締めくくられました。ライブはまさしくそういうファンも含めた色の混ざり合いが体現できる場所だと考えています。今回の5thライブは、そんなライブになるのだと考えています。

 

こういうメッセージが全員に届くとは思いませんが、少しでも他人との違いを受け容れ、混ざり合っていくことの素晴らしさが理解されるよう、筆者は勝手ながら願っております。

 

以上です!

ここまで読んでくださって、ありがとうございます!